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工藤俊作 (海軍軍人) : ウィキペディア日本語版 | 工藤俊作 (海軍軍人)[くどう しゅんさく]
工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 – 1979年(昭和54年)1月12日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中佐。1942年3月、駆逐艦「雷」艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として有名である。 == 経歴 == 山形県東置賜郡屋代村(現高畠町)で、農家の工藤七郎兵衛、きんの次男として生まれる。山形県立米沢中学校を経て、1920年、海軍兵学校に入学(第51期)。同期には大井篤や実松譲、豊田隈雄、小園安名、有泉龍之助などがいる。八八艦隊構想のため、海軍兵学校は第50期から第52期までは入学定員が300名に拡大されていた。1923年、海軍兵学校を卒業。その後オーストラリア・ニュージーランドなどの南洋方面遠洋航海に出発するが、その練習艦のうちの一つである「磐手」の艦長にのちに海軍大臣、総理大臣を経験する米内光政がいた。 遠洋航海終了後に、軽巡「夕張」に配属された。1924年10月に戦艦「長門」に転属、同年12月に海軍少尉に任官。以降、水雷学校、砲術学校の学生を経て、1926年に海軍中尉、第二号掃海艇乗り組みとなる。1927年、駆逐艦「椿」に転属、1929年、駆逐艦「旗風」の航海長となり、カムチャツカ方面の警備を担当。1930年に軽巡洋艦「多摩」、翌年に水雷学校高等科で学ぶ。1932年に水雷学校を卒業し、以後、駆逐艦「桃」水雷長、重巡洋艦「鳥海」分隊長、駆逐艦「狭霧」水雷長、軽巡「球磨」水雷長、「多摩」水雷長、軽巡「五十鈴」水雷長を歴任。1937年、海軍少佐に昇進、翌年、駆逐艦「太刀風」艦長となった。1940年陸上勤務となり、海軍砲術学校教官、横須賀鎮守府軍法会議判士を務めた。同年11月、駆逐艦「雷」の艦長となり太平洋戦争を迎えた。
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